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灘辺先生追悼

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8月14日
親友であり、先輩であり、後輩でもあり、家族でもあった灘辺鍼療所院長の灘辺隆治先生が永遠の眠りにつきました。
享年64才。我々の勉強会中国医学鍼灸研究会「霊枢2001」の会長でした。
先生との生前からの約束で、葬儀委員長を勤めさせていただきました。
ご会葬下さった皆様方、お忙しい中、誠にありがとうございました。
弔辞の中で、お伝えしきれなかった事がありますので、ブログを通してお話しさせていただきたいと思います。
 
昨年の暮れ頃より臍のゴマをとってお臍が膿んだということで、お酒も控え気味でした。
それでも勉強会には欠かさず参加しており、我々周りの人間も心配はしていませんでした。
今年に入り、まだ治らないということで少しまずいなと本人も考え始めたところ3月になり、腹水が溜まり、初めて本格的な検査を受けました。
癌マーカーが上がっておりました。しかし、場所の特定が出来ないまま、抗癌剤の治療を開始することになりました。
東洋医学のことを大好きな先生にとっては、苦渋の決断であったと思います。 
腹水が溜まるという、生活に差しつかえのある症状がなければ、おそらく抗癌剤治療を断っていたことでしょう。しかし、このときすでにステージ5で、余命9ケ月と家族の者には申し伝えがありました。
抗癌剤の治療を受けながら、中国の漢方で抗癌作用が強力といわれる天仙液、お灸などの東洋医学を併用しながら、短い闘病生活がここから始まりました。しかし、病状は日に日に悪化し、腹水は溜まりつづけ、一日に何リットルと抜かなければならない状態が続き、人とも会うことを控えるようになりました。この状況の中、周囲の方には先生の意向で本当のことをなるべく隠しておりました。それはなぜかというと、人から心配されたり、弱い所を人に見せるのが苦手だったからだと思います。

20代半ばでベーチェット病のため失明しながらも、前向きに立ち上がり、ポジティブに人生を生き抜いてきた先生でした。 
「常に人の事を思いやり、心配していた人間」だったので、その逆は苦手だったのだと思います。私とも調子の良い時しか会ってもらえませんでした。 自分が笑顔で人と会える時しか人と会いたくなかったのでしょう。そして、ニコニコしながら「そうなんか~」と言って、人の話を聞くのが好きな人でした。 自分の悩みやグチは話さない人でした。

先生本人は元気になってから皆さんにまた会うつもりで最後まで頑張っていました。
このような事情もあり、病気のことを伏せたままにしていたことを、ご理解いただければ幸いです。


追伸:闘病中、副作用の痛みできつそうでしたが、奥さんに自宅で見守られながら
私としてはとても幸せに見えました。